「音楽でなく、管理・統率の徹底ぶりに圧倒される」<文/音楽批評・石黒隆之>

以下は引用文

そこで、一部で“ブラック部活”とも揶揄されるほどに厳しい鍛錬の行きつく先を考えてみたい(もちろん、ブラバン強豪校がブラック部活だと言っているわけではない)。
 アルプススタンドから聞こえる傷一つない演奏には、職人的な辛気臭さが充満している。よく言われる“プロ顔負け”という形容詞は、裏を返せばそういうことだ。

 その中で、吹奏楽部強豪校のレギュラーを目指すとは、誤差が許されない部品を延々と納入し続ける手工業に近いのではないだろうか。そこでは、全体を見渡す視野ではなく、歯車のひとつとして身を捧げることに疑問を抱かない、都合の良い素直さが要求される。

 これこそが、“見事な”吹奏楽の演奏に対して、筆者が直感的に抱く違和感の正体である。

 もちろん、習志野高校の“美爆音”も、“魔曲”を奏でる智辯和歌山も、完成度において、立派な芸であることは否めない。だが、音楽に感動しているというよりは、管理、統率の徹底ぶりに圧倒されていると言った方が正確だろう。

 足並みはバラバラ、ピッチが不安定でも、音楽は成立する。フラフラしながらも、底力を振り絞るニューオリンズの子供たちの演奏を聴けば、その違いは明白だ。彼らが身を捧げるのは音楽、楽曲であって、部活動ではない。

 一方、高校の吹奏楽は、そのフィールドから一歩外に出た途端に効力を失ってしまう。脆(もろ)く危ういバランスの上に成り立つ曲芸だから、目立っているとも言える。そんな風に儚(はかな)い“芸”を特別視する精神性は、スポーツ風メロドラマとも呼ぶべき、特殊なカテゴリーに属する高校野球に通じる。
 学生が好きでやっているのだから放っておけばいいと思いつつ、しかし、このちんけなカタルシスの生贄(いけにえ)になるには、10代はまだ早すぎるのも事実である。

 

当事者だったものとして、同意できる部分があるのだ。