#隠された安楽死・在宅医療の闇・VD・VNの専横の世界

ここでは意図的に、訪問介護介護施設は抜いている。

彼らは、医師や看護師より遥かに低賃金で働かせられている。そのプライドやモチベーションを保つのが難しいだろう。故に、被介護者にあたったりする。また、ほとんど訓練を受けていない素人にも等しい職種である、それ故の事故なども多聞する。しかし、これらは、隠された意図的な安楽死とは言い難い。

私の家族の在宅医は、本人の目の前にで私に長時間、在宅の覚悟を説いた。

在宅の覚悟とは、何があっても救急車を呼ばずしてVDやVCの到着を待つこと、間に合わなかったら、諦めてそのまま看取ることだそうである。

しかし、いくらなんでもここまで言う医師は少ない。呼ぶか呼ばないかは、人工呼吸器など延命措置のことも含め本人や家族が決めることであり、どっちを選んでも間違いとはいえないというのが多い。

だが、そういいつつ、在宅の覚悟のない人は、在宅で治療したくっても支援できないから、病院へ行けという。

患者家族を馬鹿にした話である。できるだけ在宅で過ごさせ在宅で看取りたい、しかし、少しでも助かる見込みがあるなら、医療を受けさせたいというのが家族の人情である。

在宅医療は、治療をしない医療である、それは、隠された安楽死である。

次に、在宅医などがよく使う言葉として、「処理できない」というのがある。

経管栄養で唾液や喀痰が多くなる時に使われている。

説明がないのでよくわからない言葉だ。イメージとしては、経管栄養で入れた栄養が処理できなく消化吸収ができないというふうに思ってた。それは死に際して体が水分や栄養を欲しなくなるからであり、それをむりに入れることは延命の虐待だとさえいう。

そのために、水分や経管栄養量を漸次減らしていき「枯らしていく」・衰弱させていくのが、自然な一番楽な死なせ方だといい、病院をはじめ在宅や施設でさえ高頻度で行われている。

私の家族も嚥下不全とを診断された時、第一選択肢・何もしないと第二選択肢・点滴を減らすで、世界常識・世界標準として提示された。

私は、これを、隠された安楽死のの第二とする。

今日の訪問で再度「処理できない」の意味を問うた。ようやく答えた。何の事はない嚥下できないことである。特に唾液などを、だから吸引量や喀痰量が多くなるだけである。決して消化吸収できないことではない。これは当たり前ではないか。

確かに、欲する水分量や栄養量は衰弱によって少なくなり、それを無理やり補充することは、本人にとって苦痛であるそうなことも、傍で介護・看護していて実感はする。

しかし、それは、あとからついてくることであり、最初からすることではなかろう。

続く。。